戦後76年が経つということは、戦争当時のことをしっかり覚えている人となると現在83歳以上位ということになります。
私はもうすぐ還暦ですが、「戦争を知らない」年代なんですね…
私の親世代は「戦争を知ってる」年代ではありますが、叔父や叔母を含めてほとんどが亡くなってしまいました。
↑ 「平和記念公園」 平和を保つのが私たちの使命ですね…
母(産みの母)は横須賀のホームにいますが、既に色々なことを忘れてしまっています。
もうすぐ90歳なので、そりゃそうかな…という感じです。
私は養女なので、養母は「父の姉」にあたる人でした。
父を含めた兄妹5人は日系人の祖父母の子供としてアメリカで生まれ、戦後船で日本に引き上げてきました。
↓ 父についての思い出を書いた記事はこちら
そのため、小さい頃は英語と日本語の入り混じった環境の中で私も育ちました。
父や養母達にとって「第二次世界大戦」は、祖国と祖国の戦いでした。
- 自分が生まれたアメリカ
- 自分の親が生まれた日本
その双方が戦い、
その現実を目の当たりにしたということになります。
↑ 父たちは当時、どんなに未来を不安に思って過ごしていたのだろう…
何度も何度も、その時の話を養母や父や叔母や叔父からも聞きました。
その話を私の子供たちに話したいけど、なかなか普段の生活の中でゆっくり話す機会は持てないものですね…( *´艸`)
終戦当時の父たち兄妹の年齢は、
- 長女 30歳
- 次女 28歳
- 三女(養母)26歳
- 長男(父)25歳
- 次男 22歳
でした。
アメリカが戦争に本格的に参戦した1940年当時は、父の年齢がアメリカの成人である21歳に満たなかったため、父は戦争へ行くことを免れました。
つまり上3人が女子だったために、誰も日本軍と戦わずに済んだのです。
その当時カリフォルニア州に住んでいた日本人は、マンザナーとツール・レイクという2つの収容所に分かれて収容されました。
↑ https://www.buzzfeed.com/jp/bfjapan/japanese-internmentより引用させていただきました
父たちは、マンザナーの収容所で終戦まで家族一緒に暮らすことが出来たと言います。
砂漠の中の収容所は砂嵐が吹き、サソリもいたと聞きました。
戦後、アメリカのサンノゼ(San-Jose)の自分たちの家に戻ると、メキシカンの家族が住んでいたそうです。
完全に戻る家はなくなってしまったのです。
その時の日系1世だった祖父母の判断が凄いなと思いました。
「誰も戦争に行かず、家族全員が無事で一緒にいられたことを神様に感謝しようじゃないか!何もいらないから一緒に日本に帰ろう!!」
そして7人全員で船で日本に帰ってきました。
日本語も不自由な父達が暮らしていけるようにと、祖父母は考えました。
「アメリカ軍の基地(ベース)のある街に分かれて住もう。きっと英語と日本語の両方が使える私たちにも出来る仕事があるはずだ!!」
そうして、長女と次女は横田基地のある福生に住み、祖父母と下3人は横須賀基地のある横須賀に住んだのです。
どちらから米軍が引き上げたとしても、どちらかは東京に近いという理由で残るだろうと考えたようです。
そして私は横須賀で結婚した父と母の長女として生まれたという流れです。
終戦記念日になると私は凄くこの「祖父母の決断」を思い出します。
「家族が一緒にいられることの幸せ」
これこそが、どんな有事であっても一番大切なことなんだと思います。
祖父母は帰りの船の中でこう話したと言います。
「あんたたちは日本を知らん!どんなに非国民と言われても仕事さえあれば何とかなるけーね!いらんこと言われたら日本語が分からんフリをしんさい!」
(祖父母の出身は山口県です)
父や養母はラッキーだったのだと思います。
強い両親の元で、家族一緒にいられたのだから…
そして、本当に素晴らしい偶然が重なって私も生まれて来たんだと思います。
戦争を語り継ぐ世代があと少しでいなくなってしまいます。
絶対に忘れちゃいけないのは「戦争はしない!」ということですね!!!