ドラキュラとはドラゴンの息子、「小竜公」とでもいうような意味なのです。
国はルーマニア、ヴラド3世は父がオスマン帝国で拘留され、そんな中1447年に兄が暗殺されました。(この暗殺はハンガリーのトランシルヴァニア侯フニャディ・ヤーノシュの指示だったという説があります)
↑ https://www.kaze-travel.co.jp/blog/romania_kiji003.htmlより引用させていただきました
ドラキュラ伯爵はとっても面長でどこか鋭い目つきですね!
オスマン帝国は当時バチカン帝国への進出を企てていました。
ここからヴラド3世の亡命生活が始まり、ワラキアに落ち着きます。
ここで結構ずる賢く世渡りをするヴラド3世の生き方が見えてくることになります。
ハンガリーとは対オスマン帝国の同盟を結ぶ一方で、オスマン帝国の要求した6000ドゥカート貢納金を支払い君公として承認されます。
この貢納金の要求がエスカレートしていくと、ヴラド3世はこれを断り、使者を生きたまま串刺しにしてそれを見せしめとしました。
本人は自分に対して無礼があったためと釈明し、その後幾度となくオスマン帝国から侵略を受けましたが、その都度撃退してきました。
↑ 私の中のドラキュラ城へ向かう道はこんな感じです!
敵国軍の大将であるメフメト2世の首を目的に夜襲を繰り返し、オスマン帝国軍など2万人を串刺しにしたと言います。
その後入城したメフメト2世が見たものは、この2万人が串刺しにされた「串刺しの林」だったのです。
これで1度は戦意を失ったものの、貴族たちを糾合してヴラド3世の追い落としに成功します。
↑ http://mementmori-art.com/archives/22651178.htmlより引用させていただきました
ドイツの書籍の木版画のようです。
ヴラド3世はハンガリー王に捕らえられ、幽閉の身となります。
この頃最初の妻がポエナリ城の塔から投身自殺をしてしまいます。
このことがきっかけでフランシス・コッポラの映画「ドラキュラ」では、ヴラド3世が反キリスト教になり「吸血鬼と化した」という筋書きになっています。
↑ 撮影技術がまだまだだった時代の映画としては凄いと思います!
何故か子供心にこのクリストファー・リーさんが大好きだったんですよ…怖いのに不思議ですね(笑)
ドラキュラが苦手なのは、ニンニク、太陽の光、大量の水、十字架などです。
寝ている間に胸に杭を打つ!!ことが決定打です(笑)
映画を観て何年たってもその辺は忘れていません!
その後ヴラド3世はカトリック教国から支援を受けるために、正教会からカトリック教会に改宗するのですが、正教会教徒であるワラキアの民衆からの人心を失ってしまいます。
その頃ワラキアを治めていたバサラブ3世ライオタを追い出して三度ワラキアで公位に返り咲きますが、最終的にはオスマン帝国と戦って亡くなっています。
オスマン帝国軍はヴラド3世の首を塩漬けにして持ち帰ったとされていますが、本当に何から何まで残酷ですね。
「ドラキュラ」という愛称はヴラド3世自身もお気に入りだったようで、本人筆のサインでも残っています。
ヴラド3世の父、ヴラド2世の呼び名が「ドラクル公」だったことから「a」をつけ「~の子」という意味合いで呼ばれていたという説が一番最もらしいと思います。
Wladislaus Drakulya(ヴラディスラウス・ドラクリヤ)
本当に彼が吸血鬼だったのかは全く謎であり、小説自体も創作であるという見方が大半です。
実際にドラキュラ城とされている「ブラン城」もヴラド3世は一時だけ留まっただけという見方もあるので、ますます「ドラキュラ」の小説や映画の「吸血鬼像」からは程遠い感じもします。
- 当時の戦い方というのは本当に残酷だったこと
- 串刺しというやり方で相手軍をけん制したこと
- 幽閉されたり、身内を殺害されたりと悲しい人生だったこと
それだけは「ドラキュラ伯爵(ヴラド3世)にまつわる事実なのかなと思ったりしました。
戦争は本当に残酷であり、侵略や統治などというものが常に歴史の中で戦いを生んでいますね。
そうでなくても、我々人類はパンデミックや自然の猛威などと戦わなくてはならないのですから、全人類が手を取り合って同じ目的で1つになることがどんなに大切なのかは今でこそ考えないといけないと思っています。
まさにジョンレノンの「イマジン」の世界観が大事なんだなと思います。
ルーマニア観光キャンペーンのビデオ内で、イギリス王室のチャールズ皇太子が、ヴラドの子孫であると名乗っておられるというのが興味深いです。(2012年)
ルーマニアを旅することがあったら、ちょっと思い出してほしい「ドラキュラ伯爵(ヴラド3世)」の物語でした。