「高齢者」を意識する「きっかけ」があるとしたら、それはどこなんだろう…
そんな疑問を感じながら歩いていた通院の道すがら一人のおばあちゃんに声をかけられた。
「歩き始めたら杖がないことに気づいたの…。あのバス停に置いてきたんだと思うんだけどここからあなた、見える?」とおっしゃいます。
ほんの20メートル先のバス停の椅子に立て掛けるように「杖」があるのが見えました。
「あ、バス停のベンチにありますね…」
「やっぱりそうか…」と戻ろうとしたので、「ちょっとここに居てください。取ってきますね」と言って取りにいきました。
↑ ちょっと遠いと見にくいですよね…
戻ってくると「ああ、本当にありがとう。杖を持って3週間ぐらいなんだけど、時々忘れてちょっと歩いてから気が付くのよ!本当にありがとう」とおっしゃいました。
「いえいえ、あって良かったです」と言ってその場を離れようとしました。
おばあさんが、「今は50代ぐらいかしら?今が一番元気なんだからいっぱい楽しんでね!」とおっしゃいました。
(50代…なんかちょっと嬉しい(笑))
「はい!そうします…ありがとうございます」と言って病院へ向かいました。
↑ 老いは急に来たりするかもしれない‥少しずつなら対処できるのか…
そこでますます「高齢者」という言葉について考えてしまいました。
どんなところから「私は(僕は)高齢者!」と意識するのでしょうか…。
- 大きな病気がきっかけ
- 定年退職して社会的な地位などが無くなった
- 年金を貰い始めた
ここら辺りではまだまだなんだと思います。
私だったら自分が「高齢者になってしまったなーー」と思うのは、
- 補助器具がないと歩けない
- 日常生活で娘など家族の手助けが必要になった
- 旅行などへ行く気がしなくなった
そこらで感じるかもしれないなって思いました。
↑ 歩行器があれば買い物ぐらい行けるだろうか…
大きな病気や手術をしても、
- そのことで必死でしっかり治そうとする訳で…
- リハビリに励んだりもする訳で…
そこではまだ自分は高齢者だという意識もなく、今までの自分の回復力を信じて頑張るのだろうと思います。
退職しても、また機会があれば働きたいなって思うのではないだろうか…。
年金を貰いはじめても、そこだけに頼ることなく「仕事」は何かしらやろうとするのではないか…。(ボランティア活動なども含めて)
そうなると、
- 本当に何か物や人に頼らないといけなくなったとき
- 大好きだったことをやろうとする気力がなくなったとき
- 日常の買物までもがしんどくなったとき
そんな時に本当の老いを感じるのかもしれません。
↑ 介護を受けるようになると時間の流れはどう感じるのだろうか…
断捨離をしても、「終活ノート」を書いてもそこからという訳ではありませんね!
逆に元気なうちにやるべきことがその2つなのかもしれません。
- キャンプにいけてるうちは、
- 旅行にいけてるうちは、
- 仕事帰りに飲みにいけるうちは、
まだまだ高齢者の括りだと自分では思っていないのかもしれません。
誰かのお世話になるようになってくれば、「老人ホーム」も視野に入ってきますが、私が出会ったおばあちゃんのように杖でも歩ける限りは、自分で買物もいきたいです。
↑ 自分のことが出来なくなるってどんなに辛いだろうか…
若い方が子供を産まなくなっているので、私達は年金に頼れなくなるのかもしれません。
だとしたら、この物価高じゃ暮らしていけない高齢者が増えることになります。
日本だけの問題ではなさそうですが、私たちは一番安定した良い時期に20代、30代、40代を生きてきたのかもしれません。
同年代の読者様が多いこのブログで、皆様が「高齢者」を意識するのが少しでも遅いことを願います。
そんなことを言っている場合じゃない!
早めに「帯状疱疹」の予防注射を予約しなくっちゃ!(◎_◎;)