コロナ渦じゃなければ、一年に2~3回は娘や息子を連れていけたのになぁ~と思います。
今朝未明、横須賀の実母が亡くなりました。
横須賀と久里浜に2人の弟がいるので、葬儀のこととかも全てお任せです。
私の役目は親しい親族への連絡のみです。
悲しいという想いはきっと遺体と対面してから感じるような気がしています。
今はただ、思い出を振り返る時間なのでは?と感じています。
すごく記憶に残っている思い出をブログでも2つほど振り返ってみたいと思います。
良かったら振り返りにお付き合いくださいm(__)m
- 私が17歳で「卵巣嚢腫」の手術をしたとき
- 私の子供たちの「ダンスの発表会」を観にきてくれたとき
1.私が17歳で「卵巣嚢腫」の手術をしたとき
「卵巣脳腫」ということを知らずに、卵管がねじれて痛みが出て緊急入院→検査→手術となったのが17歳の時でした。
当時は色々別の病気も発症したりして、3週間も入院しました。
養母は英語を教えていたこともあって、週に2回ぐらいしか来れずにいましたが、実母である母がほぼ毎日来てくれました。
大分痛みが無くなったころに、編み物の道具を病院に持って来て、
「暇つぶしになるけ、これを覚えんさい!」と言いつつ編み物を教えてくれました。
当時は私に対して、養母も実母も「私が養子である事実」を言わずに接していましたが、叔母というにはとっても不思議な行動ですよね!
(実は私と2人の弟は全て戸籍をみて知っていました(笑))
- 「あんたはまた、不器用じゃね~」
- 「マフラーぐらいは編めるじゃろ!」
とか言いながら、結局、退院の時に渡したマフラーを嬉しそうに持って帰っていましたね。(;´Д`)
かなり不出来な作品だったと思います…(笑)
↑ 3週間の入院は結構長かったから、暇つぶしになりましたよ!(笑)
後日談ですが、2人の弟は、
「なるが入院した時は、俺たちのことなんかほったらかしで、なるの好物を作って病院に毎日行ってたよな!」
何で毎日行くのか?って聞いた弟たちに、
「卵巣や子宮はうちの家系なんよ!可哀そうに…」と話していたそうです。
それって「私が母親だ!」って弟たちに言っているようなものですよね(;´Д`)
大人になってから弟とそんな話をして笑ったことがつい昨日のことのようです。
2.私の子供たちの「ダンスの発表会」を観にきてくれたとき
子供たちの発表会が毎年あったのですが、まったく舞台とかには興味がない母が「一回は観るから」と来てくれたことがありました。
息子が11歳、娘が9歳ぐらいの時だったと思います。
全て終わってからどうだった?と聞いたら、
「一番上手かったね~!あの2人が一番上手かった!!」と興奮気味でした(笑)
孫ってそういうものなんだね!と弟達と笑ったのですが、その後ご飯に立ち寄った時に、
「上手いけども、ダンスを仕事にさせちゃいけんよ!食べていけんようになるけー」
と言われました。
↑ 一番上手かったかどうかなんてわかる訳ないですね!視線は孫にしかいかないのだから(笑)
そして子供たちが成長し、それぞれが就職しないと話したとき、
「食べていけるんやったらかまわんが、大丈夫なん?」と心配そうに話していました。
その時、私はこんな風に答えたように記憶しています。
「食べていけないようだったら、そこから何か頑張ればいいよ!本人たちがやりたいということを反対は出来ないよ!」
「あんた~!!あっちの世の中は甘くはないじゃろ!」
そんな会話をしたと思います。
そんな母もホームでは、「孫がテレビに出るんよ!」「孫が作ったダンスなんよ!」と看護師さんやワーカーの方々に自慢していたようです…(;´Д`)
私からみると、2人が歌やダンスが好きなのはあなたの血筋!
- いつも町会のカラオケに通って、歌ったりしていたそうです。
- 盆踊りになると張り切って、浴衣を着て踊り子をやってたし…。
そんな普通の「親ばか?ババ馬鹿?」な母でした。
↑ いつの日か天国でまた話をしたいな!
コロナ渦じゃなかったらもっともっと会えていたけど、これも仕方なかったですね。
せめて解除になってから葬儀なので良かったのかもしれません。
方言は山口県の岩国出身なんで、最後までこんな感じでした(笑)
英語の方が得意な日系の父と見合い結婚して、横須賀の基地の近くに住み、英語のヒヤリングも上達した母でしたが、最後まで英語は単語しか話せませんでした。
母のつくる煮しめは本当に美味しかったです!
生んでくれてありがとう!!
大好きだった父のところへ行ったと思うと安心です(#^^#)
思い出話にお付き合いいただきありがとうございましたm(__)m