松尾芭蕉の「奥の細道」で有名な冒頭の一文ですが、直訳だけだとつまんないと思います。
「月日と言うのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り去っては来る年もまた旅人のようである」
うーん、この訳によれば、「月日=旅人」ということになる。
これは超訳してみるともっと面白くなるんではないでしょうか?
超訳Part1
「今日も終わった。
今月も終わった。
今年も終わった。
そして明日になった。
そして7月になった。
そして2021年になった。」
だったら、今日の旅から明日の旅、来月の旅、来年の旅へとずーっと続く人生はずっと旅なんじゃないの?
今住んでるそこはホテルなんじゃないの?
超訳Part2
私たちはえっちららおっちら生きているけど、旅に出てると思えばもっと大切に一日一日を過ごせるんじゃない?
「明日はどこに行く?何を食べる?誰と会う?」
昨日何食べたかを忘れちゃうまでは、「もっと楽しい」を意識しながら旅を続けられるよね!
超訳Part3
毎日毎日旅人に聞いて見ようよ。
「どんな一日にしたいか?
どんなことを選んでやろうか?
どんなものをつくって食べようか?」
そんなあなたも旅人なんだから、そして自分が一番自分をよく知っているのだから、あなたが決めた道が一番生きやすい未来なんじゃない?
どうせ旅を終えるまでにはまだまだ時間があるんだから、寄り道や回り道も全然有りでしょ!
自分に聞いて生きてゆく未来は「あなただけの旅路」だよね!
なーんて、とんでもない訳になってしまったみたいです!(笑)
松尾芭蕉は門人の河合曾良 を伴って、江戸を出発し、東北・北海道へ旅をしました。
「奥の細道」は旅行記だったとされています。今の時代だったら、きっと人気の旅ブロガーになっていたに決まってますね!(笑)
これだけの文才があればトップブロガー!!
芭蕉はこの旅を終えて5年後に亡くなったとされています。
旅をしながら様々なことを考え、次の居場所についてや旅籠について考えてたりしながらもそれが自分の人生と見分けがつかなくなっていく瞬間に思いついた言葉がこの、
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」なんではないかなと思いました。
ずっと旅をしていると、不思議な感覚に陥ることがあります。
- このまま一生家に帰れないかも
- 本来旅を続けるのが人間の正しい生き方なのでは?
- 壮大な自然、知らない街だって私を受け入れてくれている
- 自分が小さすぎてこのまま消えても誰にも知られない
- これは旅じゃなく、私の人生の一部なんだ
こんな思いが全てその一言に置き換えられているとするならば、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」は全世界の旅人の気持ちを代弁してくれているのではないでしょうか?!
↑ 松島の雄島は芭蕉もお気に入りだったと言います
すみません( *´艸`)
超訳にとどまらず、とんでもない方向へ話がぶっ飛びましたね~(笑)
ツアーではなく、「自分の旅をする」ところから見えてくる景色があります。
- 人生の中のひとつの旅
- 旅は人生そのもの
どっちが正しいのか、どっちが普通なのかはわかりませんが、辛いことがあっても旅の途中と思って乗り越えちゃいましょう。
旅ではパスポートを失くしたって何とかなりますし、人の情けに触れることも多々あります。
そう思うと、旅も人生もちょっとだけ容易く感じませんか?
コロナで自粛も1つの旅の形だとすれば、「今はコロナ国でまったり滞在中!」ってことでサラッと乗り切れそうでしょ?(^_-)-☆