学校で習う意味としては、「月日というのは永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である」ということなんですね。
ここからは、勝手に私が思う、松尾芭蕉の奥の細道のこのフレーズについての解釈ですので、反論もあると思いますが語らせてください(笑)
↓ 実は以前に違う角度からこのフレーズを超訳しちゃった記事もあるのでこちらから
一年一年という時間の経過も旅人…!
旅人は1つの場所に居座ることはありません。
それだと移住であって旅ではありませんね!
月日もそうだというのは、同じ2022年は二度と来ないので、去って行けば二度と会えない「旅人」と同じ…。
2023年という新たな出会いがあるけど、それもやがて去ってしまい、2024年と出会う。
確かに月日というのはそういう意味では旅人です。
「A」という人間が80年生きるとします。
月日は80年分通り過ぎて、そこで終わるのでしょうか?!
違いますね。
その後も「B」という人間や「C」という人間にとって月日はやってきては、過ぎ去っていきます。
つまり「人間」もまた「旅人」であり、「月日」も旅人だと思うのです。
それを繰り返す訳ですから、永遠に「旅」は続くということになります。
永久に流転し続け、人類が滅びようとまた別の生物が旅を続けていくのかもしれません。
↑ 歌碑も様々な地域にあります!
もうそうなれば、「旅」は「宇宙」だ!
みたいな感覚になりますね!!(笑)
様々な宗教でも言われている「輪廻転生」という考え方もまた、生まれ変わっては永遠に続いていく生命のことを教えています。
つまり、私たちは宇宙の中で一時の時代を生き、旅人としてどこかで新たな時代を迎えて再び、三度旅をするのでしょう。
松尾芭蕉さんがそんな「宇宙スケール」の言葉を紀行文の冒頭に持ってきた理由は何だったのかわかりませんが、とっても宇宙を感じちゃう一文だと思ってしまいました(;´Д`)
少々話は反れますが、自然の中で生きている動植物はちゃんと「次の命」を創り出しています。
人間だけ(現代では)が、骨を骨壺に入れてお墓に入れてしまうので、自然の原理による「新たな生命」を生み出してはいません。
- 葉っぱは「緑」の時期を過ぎて色を変え、木から落ちて土に返る。
- 土に帰って昆虫などの死骸と共に肥料となり、春になってまた新たな新緑に繋がる。
「葉っぱのフレディ」〜いのちの旅〜という童話では正にそのことを語ってくれています。
「葉っぱのフレディ」という子供たちが演じるミュージカルも何年かにわたって上演されてされてきましたが、その中での葉っぱのフレディ(主人公)の言葉にドキッとさせられました。
『春に生まれて冬に死ぬのだったら、ぼくはどうして生まれてきたの?』
という台詞があります。
このミュージカルもまた、永久に続く「旅」を答えとしていたように感じました。
そんな風に考えると「人生の旅路」は「なるのパート」が過ぎ去ってもまた「新たな旅」が宇宙を創っていくのだと感じられます。
壮大なお話になっちゃいましたが、松尾芭蕉さんは凄いですね(^^)/
東北や北陸に旅立つにあたって、その冒頭にこんな言葉を持ってくるところ…凄いと思います。
人生の旅路の中で私たちは「旅」をしています。
宇宙規模で考えたら1つ1つはちっぽけな「旅」ですが、その「旅」が一人の人間の人生で「肥やし(養分)」のような役割を果たしてくれているのではないかと思うのです。
旅好きの私はその小さな「旅」に支えられて、一生を楽しく終えられたらそれ以上望むことはないと思っています。
そんな貴重な時間を「コロナ」に奪われましたが、これもまた「過ぎていく一年」に変わりはなく、永遠に続くものではないでしょう。
そして戦争は今すぐにでも終わらせるべきですね!!
旅好きなおばちゃんが考えた松尾芭蕉のこの一文の勝手な解釈…(笑)
独り言だと思って聞いていただけたら幸いですm(__)m